三島のサードプレイスを語るうえで欠かせない存在が、加和太建設と、社長の河田亮一さん。
社員が誇りを持てる仕事をしよう、それは三島に貢献する仕事だという河田さんの考えからまちづくりを手掛けるようになり、そこからこのサイト内で紹介しているサードプレイスのほとんどに関わってきました。
いわば、三島サードプレイスのキーマンです。
今回はなぜ、建設会社がまちづくり、サードプレイスづくりに関わってきたのか、河田社長の来歴も含めてご紹介します。
絶対継がないつもりだった加和太建設に入社した理由
今でこそ「加和太はまちづくりもやる建設会社」として知られてきていますが、もともとは公共事業を中心とした建築土木の会社でした。
それが今は、三島の「まちづくり」というと、色んな方が加和太建設を例に出してくださる。
今も、公共工事は変わらず会社の主事業として行っています。そのほかに、まちづくりに関する事業を「不動産」「まちなか開発」として行っています。
三島を盛り上げるためにはまずここからと決めた三島駅−三島広小路駅−三嶋大社という、三島の中心部を三角形でつないだ、名付けて「まちなかエリア」をにぎわいのある場所にすることを軸に、三島でスモールビジネスをスタートアップさせたい人の支援、その人たちがビジネスを始めるときの店舗物件の紹介のほか、いろいろやっています。
よく、この流れは計画的に、プラン立てて作られたものと思われているようです。実はぜんぜん違うんです。当初は1つずつそれぞれ別の動きでやっていたものが、気がついたらつながっていたという感じなんです。
スティーブ・ジョブスの「コネクティング・ドッツ」(注1)に似ている? そうかもしれません。
遠いところに打っていた点が、気がついたら「まちづくり」という大きな絵柄でつながっていた。
ぼくは加和太建設を営む家に生まれましたが、継ぐつもりはなかったです。
三島についても好きでも嫌いでもなかった。家族や学校、友人という狭いコミュニティの中で過ごしていて、まちとの接点も持たないままに過ごしていました。
中学を卒業後は海外に留学して、アメリカの高校に入ってカナダに移り卒業。
帰国して大学に入り、卒業後はリクルートに入社し、学校法人向けの営業をしていました。
学校法人って、教育機関だけど企業でもあるんですよ。
教育者でありビジネスマンでもある方々と話をするうち、もっと寄り添って仕事をしようと、本を読んだり勉強してみたら、経営の面白さに目覚めてしまいました。
当時は若手の先鋭的な経営者が次々名を挙げていった時代で、サイバーエージェントの藤田晋さん、楽天の三木谷浩史さん、ユニクロの柳井正さん、星野リゾートの星野佳路さんとか。
自分もこのダイナミズムの中に身を置きたいなと思って起業を視野に入れ始めたんです。社会課題をビジネスで解決する、そういう仕事をしたいと思い「起業するので、リクルート卒業します」と言って退職して、お金周りのことを学ぶために三井住友銀行に入りました。
そして、1年ほどしていよいよ起業しようと思ったんですが、そのタイミングで今まで思いもしなかった、加和太への入社を決めました。1つは、親への恩返しをしたいと思ったから。15歳で海外に行かせてもらい視野を広められたことも親のおかげだし、起業しようと思ったそのとき、改めて経営者としての父を見直すと「やっぱりすごいな」という思いが出てきて、一度も親孝行せずに好きな道を進んだら、父が亡くなったときに絶対後悔すると思って、父に電話しました。
「親孝行のために2,3年実家に戻るから、加和太に入社させてください」
父はなんて言ったかって?
「うん、分かった」
ただそれだけ。そういう父なんです。正直、仲良し親子というわけでもなく、父は高度成長期の建設会社社長ですからもう仕事一筋、滅多に家に帰ってこないし、親子の会話もなかった。
でも、今、事業継承して会社を次の世代に紡いでいくために、歴史を残しておこうと父の言葉を専門の方に聞き取りをしてもらっているんですが、その方から当時のことを聞いたら「亮一が帰ってきて会社に入ると言ってくれて本当にうれしかった」と言っていたそうです。
父は「海外にも行ったし、建設業以外の経験もしてきたのだから、建設業やっても仕方ない。新しいことをやってみろ」と言い、新規事業部を作り私を配属しました
(注1)※コネクティング・ドッツ:興味を持ったり、夢中になって取り組んだことはドッツ(dots 点)となり残り、将来的にその点と点がつながり大きな成果となるという考え。スティーブ・ジョブスがスタンフォード大学の卒業式辞で話し、広く知られるようになった。
社員との確執、和解を経て思ったこと
と言われても、何をしていいか分からない。事業部には僕と、当時の総務課長の二人だけ。悩んでいたら1ヶ月後に父が「ピラティススタジオの事業をやれ」と言ってきたんです。
え〜?! ピラティス?! 三島でビジネスとして成り立つの?? など思いながら、必死で計画を立てていましたが、社内には冷たい風が吹いていました。
高度成長期も終わり、建設土木の世界そのものがサイズダウンしていく中、社運をかけた大規模宅地開発も低調で、会社としても一番悪い時期でした。30代以上の社員は給料を2/3カットされたし、新規の融資も受けられない状態でした。当然社内からも改善案はいろいろ上がってくるんですが却下されている中、突然帰ってきた息子の新規事業だけが立ち上がった。「俺たちが建設業で必死に売り上げた資金で、息子は好きなことをしている!」社内ではこう見られていたわけです。
ぼく自身は全然優遇されているわけじゃなく、一番下の給料で平社員として、分からない事業を成功させるために人の何倍も働いていたのに、なぜ文句言われるの? という感じ。だからできるだけ建設の部門の彼らとは距離をおいていました。建設部門とシナジーのある仕事をしている認識もなかったし……。
でもある日、若手の一人が「一度、みんなと話しませんか」と飲み会に誘ってくれたんです。
行ったら社員に囲まれて、「正座しろ」と言われ、そのまま2時間説教ですよ(笑)。でも、その人たちは会社が苦しくなり、給料を下げられても残ってくれた、会社への思いがある人たちなんです。
飲み会をきっかけにして、建設の部署の人たちとも新しい関係性が生まれるようになりました。建設の現場にも行くようになりましたね。現場での困りごともいっぱい見聞きしました。
「この人たちが誇りを持てる仕事、家族や親戚に自慢できる仕事をするようにならなければいけない、それは、この三島のためになる仕事をすることだ」と考えるようになりました。
加和太をまちづくりの会社に変えていきたい、そう決心して父に言いました。ピラティス事業からは撤退させてもらうことにして、「加和太建設の本業である建設に関わらせてください。そして可能であれば会社を継がせてください」 そうして改めて加和太の事業に取り組み、6年後の2015年には代表取締役に就任しました。
会社の意識をどうやって「まちづくり」に向けていったのか 転機になった「大社の杜みしま」
最初にやったことは社内変革です。
いきなり「これからまちづくり事業もやります」なんて言っても誰も受け入れられない。
社員には「働きやすい環境をつくりましょう、そのためには人事制度を見直して、事業戦略もつくりましょう、減らされた給料を戻していきましょう、そのためには……」といったことを目の前にいる一人ひとりに伝わる言葉で話していきました。
当時は社員も60人程度だったので、一人ひとりの状況や興味に合わせて話をしていきました。
そうやって徐々に社内のまとまりができて、会社の機運も上がり始めたころ、自分で取り組んだ事業である程度売上をあげることができたので、「やりたいことのために投資させて欲しい」と言って作ったのが複合商業施設「大社の杜みしま」です。
2013年のことです。
三嶋大社という素晴らしい神社があるにも関わらず、当時、門前町に賑やかさはなかった。
お土産物屋さんも少なかったし、せっかくの場所がシーンとしてたんです。一過性のイベントを重ねる賑わいではない形で、大切なこの地区に賑わいを取り戻したかった。
ほかのところには入っていないようなこだわりのあるテナントさんに入ってもらいました。
三島餃子やスイーツ、和カフェ、アロマやお土産、3Dプリンタでグッズを作れるお店などユニークな店舗が揃っていました。
オープン後の6年で約250万人もの人が訪れて、にぎわいも生まれました。
2014年には静岡県景観賞で最優秀賞を受賞したりもしたのですが、ぼくのビジネスモデルの設計が甘かった。
毎年赤字を出し続けて、2019年に閉業になりました。
これはぼくにとって本当に苦い経験、一番の失敗で一番の後悔です。
だけど、「大社の杜みしま」ができたことで、ぼくがやりたいことのイメージが社内に伝わったし、三島の中に「加和太はこういうこともやる会社なんだ」という認識が広まりました。
社員から「親戚の集まりで『お前の会社、面白いことやってるな』って言われました。
今まで会社のことなんて話題にならなかったのに」とか、「最近、加和太はすごいね、と声かけられた」、なんて話を聞くようになりました。
会社の中にも、徐々に「まちづくり」ってこういうことなのかという意識が生まれつつありました。
次々打つコネクティング・ドッツ 不動産買い付け、LtG Start up Studio、みしますきー……
「大社の杜みしま」の跡地をどうしようかと考えていたときに、和田亮一さんと出会い、彼がスタートアップ支援の事業をやっているという話から「LtG Start up Studio」が誕生しました。
しかし、この時点で三島で起業したい人がわんさか集まっていたのかというと、全然そんなことはなかったです。
だから経営陣は全員反対でしたよ。
じゃあなぜGOしたかっていうと、三島にはすごくメリットがあると思ったんです。
東京にもスタートアップスタジオがいくつかあって視察しましたけど、やっぱり活気があります。
新しいビジネスのアイディアを持った人たちが三島に来て、その人たちを育てることで、三島の中から新たな発想が出て、新しい動きが生まれるはずだと思いました。
自分自身も、スタートアップの経営者と会うことで成長できるはず。
だからやりたい、投資した分は必ず返すからと、半ば押し通す形で始まったんです。
ここでは地方でビジネスを創り出す経営者のプラットフォームとなることを目指しました。
施設内は会員制で、コワーキングスペースを作り、情報提供や交流会、講演会、勉強会、イベントなどを行いました。
起業に向けて必要な人・モノ・金・情報などを得て、ここから羽ばたいてもらおうという考えです。
一方、まちなかエリアの不動産を買い付けることもやってました。
エリアの中に雰囲気のいいお店が増えたらもっと三島は魅力的になるはずなのに、なぜそういうお店がないのかなと考えたら、やっぱり家賃が高くて事業を始めるにはリスクが高いからなんですね。
だったら加和太でヴィンテージな物件を買い付けて、それを安く貸して好きなように使ってもらったらいいのではと考えました。
でも、当時は古い物件をうまく使ってお店をやろうなんて人はほとんどいなかった。そこで、沼津でイケてるカフェをやっているオーナーとか、設計事務所とかを招いて、物件を見てもらって活用法を聞くようなツアーを毎月地道にやっていました。
やっと1件契約が決まり、おしゃれなカフェが誕生。実例があると「こんな風にお店やるスタイルがあるんだ」とか、「三島で古い物件安く貸してくれるらしい」と口コミが広がって、見に来てくれる人も増えてきました。
起業する人に寄り添い伴奏してサポートする公募型・物件活用事業支援プログラム「みしますきー」
ところがそうそううまくいかなくて、なかなか成約に至らない。どうしてかと考えると、「◯◯のお店を出したい」という夢はあっても、実際店をやるためのノウハウがない方が多かったんです。
だったら、スタートアップまでの道筋を伴走できる仕組みを作ればいいのではと思って始まったのが公募型・物件活用事業支援プログラム「みしますきー」です。
東京で同じようなモデルがあったので、一緒に組んで始めました。
三島でスモールビジネスを開業したいスタートアップの方から応募を募って、三島に合うビジネスを採択、その後はすでにビジネスを行っている人をメンターに付けて、事業計画所の作り方とか、三島にすでにある店の把握、通りごとにどう客筋が違うのかとか、工事費の算出の仕方や、設計事務所とのやりとりとか、そういう開業までに必要なことをサポートして、実現を目指すものです。
みしますきーは2025年で3回目となります。これまでにジェンダーフリーのサロンや自然派美容室、独立系書店、カフェインレススペシャリティコーヒーのカフェなど個性的な店が開業しています。
一市民となって取り組んだ「まちづくり」 映画づくりで得た貴重な体験
もう一つ、まちづくりに関して得難い経験となったのが、NPO法人「みしまびと」の立ち上げに関わったことです。
経営者の立場ではなく一市民として活動したことはとても大きかった。
映画製作にみんなで取り組んだのですが、もう本当に多様な人たちがいるわけで、意見もすぐまとまるわけがなく、「えっ、今それを言う?」みたいな発言もしょっちゅう。
なにしろみんな、熱い思いがありますからね。
事務局のトップをやっていましたが、意見をまとめるのにそれぞれの考えを理解して、その人の立場に立ったうえで分かってもらえるように話をしていかなければまとまらない。
会社ではできない経験でした。
生きている実感、このまちで暮らしている実感をすごく感じましたね。
楽しかった!
経営にも役立つ経験でした。
多様な人達が集まることで生まれる熱量とか、取り組みとかはすごく大事だと思っています。
ある研究によれば、「一定のエリア内に多様な人々が集まり交流することでイノベーションが起きる」という結果があるそうで、だから加和太のまちづくりもまず、まちなかエリア。
郊外に広げていこうという気持ちは今のところありません。
規模がそれほどでもないこと、小さいけれど素敵なことなどは、やれる人や組織がやれる機会を提供していく。
大きな投資が必要なら、地元の土建屋である我々がリスク取ってやっていこう、そんな気持ちでいます。
広げていくとしたら、三島市内で広がるというより、こういう動きって再現性のあることなので、他のエリアのもっと人口の多い都市であっても、ある一角で同じようなことは起きうると思います。その場所と我々が何らかの形でつながれば、県や町の境界線を超えて広がっていきますよね。そうなったらいいなとは思っています。
気がつけば「みしま未来研究所」や「三島クロケット」、「Distillery Water Dragon」、「6curry & Sauna」などなど、三島のサードプレイスとなっている物件にも関わらせていただいて、その場を開いている人々とは仲間としてつながっています。この関係性自体がぼくにとってのサードプレイスかもしれません。
【ひとこと】
お話したことの他にも「三島せせらぎ音楽祭」に関わったり、社の新規事業としてeスポーツ✕障がい者の就労支援であるB型作業所「ONEGAME三島芝本町」を開設したりしています。
三島に多様性のあるさまざまな取り組みが生まれ、人が集まることが、さらなる魅力を生み出すと思っています。
【あなたにとって三島はどんな場所?】
大人になって地元の先輩方が今までやってきたことを知るにつけ、すごいなと感嘆しています。
若者がなにかやりたい! と動き出したときに、旦那的存在となり「よし、やってみろ!」と背中を推すだけじゃなくいろいろな支援をしてきた。
三島らしさの1つであるそんな気質は、受け継いで自分もそうやっていきたいなと思っています。
【三島でのお気に入りの場所・モノ・コトは?】
三島のせせらぎは広く知られていますが、これは民間、行政、企業と地域の人たちが一緒になって行った再生活動のたまものだってことがすごいですよね。
再生を成し遂げた精神はまちの誇りであり魅力だと思う。
川が汚れている、へえ、知らねぇよ。
じゃなくて、自分ができることからなにかやってみよう、その気持ちが三島のカルチャーかなって思ってます。
その象徴ですよね、せせらぎ再生は。先輩たちが築いてきたそのカルチャーを、ちゃんと紡いでいかなければと思っています。
【サードプレイス利用者へひとこと】
三島のまちをゆっくり散策してみてください。
あちこちに、魅力的な個人店があります。
三嶋大社やせせらぎの合間に、個性的な人たちが展開する個性的な場を辿ってみてください。
また違う三島の姿が見えてくるかもしれません。
河田亮一(かわだ・りょういち)
三島市出身。
アメリカ、スイスで高校生活を送り、帰国後一橋大学に入学。
卒業後、株式会社リクルートで学校法人への企画営業を担当、経営に興味を持ち三井住友銀行へ転職後、起業前の親孝行のため加和太建設に2007年入社。
公共事業一本だった同社の中で、三島のためになる仕事をしようと、まちづくりに目を向ける。
現在、従来の建設土木事業に加えて、不動産事業、まちなか開発事業を通して三島のにぎわいづくりに注力。
2015年に代表取締役就任。2024年売上高180億円、社員数、臨時を含む従業員数327名の会社に成長させる。
三島市のまちづくりに関するキーマン。